Topics

掲載日:2017.06.27

ある vs.  なる

 福山雅治が父親役の主人公を演じた「そして父になる」という映画があります。結婚8年目にやっと父親になった私は、タイトルに惹かれてその映画を見ました。映画は、主人公が病院のミスで6才の息子を取り違えられていたという衝撃的な知らせを受けるところから始まります。そして、貧しいけれど時間を惜しまず子どもと接する取り違えられていた相手の父親と出会って、主人公の「自分はエリートで、子どもに最高の教育をした父親である」という自負が変わります。彼は自分がどれだけひどい父親であったのかを痛感し、良い父親になっていくのです。
 人間には「わたしは◯◯である」という意識があります(例:国籍、出身校等)。ところで私たちが自ら「〜である」と思っていること【以下では「ある」と表記】が必ずしも正しいとは言えない事もあります。さらに「ある」は成長を妨げる高ぶりを生み出したり、他グループとの隔ての壁を作ったりもします。いじめ問題や世界各地で起きている争いなどもその根底には自己中心的な「ある」が潜んでいるのではないでしょうか。その時、必要なのが「なる」です。「なる」とは、私はまだ完成体ではなく、何かに成っていく過程にあり、今の状態も変わる可能性があるという心構えです。
 実はユダヤ人もこの「ある」に固く捕われていた民族です。彼らは自分たちを「神に選ばれた民」と思い、「異邦人」を軽蔑していました。それは異邦人がユダヤ人を嫌う結果を招き、ユダヤ人と異邦人の間に隔ての壁が出来てしまいました。この深い溝は数千年間も続きました。ところで主イエスは、決してなくなることはないと思われたこの隔ての壁を打ち壊し、誰でも「神の家族になる」真の平和を実現させました(エペソ2章)。
 それでは、主イエスはどのように偉大な平和を実現させたのでしょうか?それはご自身の「あり方」をお捨てになり、何度もご自身を低くしてくださった「なる」の行為を通してでした。キリストの謙遜と献身、命がけの愛が平和をもたらしたのです。この献身の故に救われた私たちは、キリストにあって「神の家族」という新しい関係を体験しています。そこには国籍はどこか、出身はどこかという区別がありません。ただ「神の家族」があります。
 孤立した島々のように、寂しくなっていく世の中で、私たちは小さなイエスになって、みんなが主にあって一つの家族になるその日まで、自分の「ある」を捨て、「なる」の心をもって、主イエスの弟子らしく生きようではありませんか。
 「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。(新約聖書 ピリピ人への手紙 2章 5−9節)

レインボー教会(2017.06.27)|牧師のひとりごと
アーカイブ
カテゴリー
RSSフィード
新着情報